麗しき母の肖像(2008年8月)

08/01/2008
by Elders International

ーマダム・ヴィヤール アシッセー

今年も亦、敗戦の日がやってくる。あの頃、毎日何が起きたのか、どんな人がどんな発言をし、どんな生き方をしていたか、大方は忘れてしまったのだが、 憶えているのは毎朝登校すると机の隣同士の子と向い合って先生の掛声と号令で互いに相手の頬を平手で殴り合うことで一日が始まったこと。力をこめて思いきり叩くと相手も叩き返してくる。余りの痛さに手加減すると先生に直ぐ見破られて怒鳴り声が飛んできた。「手加減するな、目一杯叩け!」。何十年経っても生涯その山崎先生という名の、子供が心から信頼できる先生は決してもう現れなかった。肺病を患い海軍を除隊させられて、やむなく学校にやってきた山崎先生は「平手ビンタの朝礼で立派な大日本帝国軍人になれる。」というのが信念だったこと。

アメリカ軍の爆撃が激しさを増して田舎の村に疎開しなければならないという日も近づいてきた。空襲が何回も続き、そして戦局は隠しきれなく悪化して行った。ある日、子供の目にもすぐ判るイギリス兵の軍服を着てヘルメットを背負った4名の軍人が後手に縛られて、繫がれて歩いて行くのを見た。何も食べさせられていないのか全員がフラフラと今にも倒れそうに歩くのだが「真直ぐ歩け!」と叫んでムチが飛んだ。今にも崩れ落ちそうになっている人たちに、えらそうに怒鳴っていたのは、どういうわけか日本の憲兵ではなく、兵隊でもなく 奇異なことに当時の巡査だったことだ。犯罪人だと決めこんで警察の管理下におかれたのだろうか。捕虜となったあの4人の兵士はその後どうしたのだろう。ともかく、私は今日でも警察や警官が本能的に嫌いだ。警官というものは決して庶民のための存在ではないと知ったからだ。

私が今も忘れられないのは、当時日本中に網の目のように張りめぐらされていた町内会で会長だった父がいつも非協力だったという理由でまるで特高気取りの巡査がやってきてはイチャモンをつけていたことを知っている。しかし、剣道の高段者であり、日本刀のコレクターでもあった父には結構たくさんの兵隊さんたちのファンもいて、そうした兵隊が居合わせると警官は物の見事に殴られて逃げ帰って行くのを見たものだ。その後も移動命令がない限りは駐屯部隊から自宅に遊びにやってくる兵隊さんの数は少しずつ増えていったのは実は一人一人に何かと世話をやいた母のせいだったことを私は知っていた。

そして、それは1943年(昭和18年)のある寒い冬の夜だった。台所で夕食の後かたずけをしていた母の添で私は裏木戸を誰かがドンドンと叩く音を聞いた。母に促されて私が走って裏口のガラス戸を開けると粉雪混じりの寒風が容赦なく吹き込んできた。そして、暗闇の中には菰むしろを頭から被り髭だらけの男がヌッと立っていて、ギョッと驚いている私を見るなり「こはん(ご飯)少し、こはん少し」と言って両手を擦り合わせて祈るような格好をした。幼かった私にでもそれはすぐに判った。「アッこの人は朝鮮人だ(当時は皆んなこう呼んでいた)」。この人たちは悪い人たちだと教えられているが、お腹が空いて泣きそうになってご飯が欲しい、と頼んでいる。ほんとうは可哀そうな人なんだ。急いで母のもとにとって返すと「朝鮮人がご飯くれ、ご飯くれと言っている」と告げた。母はドンブリほどの大きな木の椀に山盛り一杯の飯と漬物を添えただけで「ハイ、これ持っていってあげて」と言ってくれた。子供心ながら本能的に母の思いやりになかば興奮していた、というのも「敵国人や逃亡者を見たら直ちに報告せよ、決して助けるような事をしてはいけない」という命令が子供にさえ周知徹底させられていたからだ。母は平然とこの規制を無視したわけで子供心に母の姿が輝いて見えたものだった。

椀を受け取るとその男は「ありがと、ありがと」と言って激寒の闇夜に逃げるように消えて行ったのだった。

当時の我が家の前は市電の電車道が走り、背後には何件かの住宅が連っていたが、その住宅群を通り過ぎれば野菜畑が続き、そして畑の向うには汽車線路が何本も走っていた。線路を越えると、そこは倉庫が立ち並んでいた。「あの吹雪の寒夜、あの人は一体どこに腰かけて風や雪を避けてあの椀飯を食べたのだろうか。あの人は朝鮮のどこから来たのだろう。家族に会いたいだろうな。お母さんはいるのだろうか。こんな寒い夜を隠れて逃げまわっていたら死んじゃうじゃないか」と何日も子供心が痛んだものだった。事実、こうした朝鮮人は待遇や就労条件が余りに約束と違うといって炭鉱や苛酷な重労働先から逃亡した人が多かったのだ。

空襲もはげしくなり、食糧も乏しくなって私たちも遂に田舎へと疎開させられる日が来た。ある夜、夜間が安全だというので夜通し田舎道を歩いた。そこは街中から4〜5時間もはなれた、函館カトリック修道院の敷地の宿泊施設だった。

学校へは山道を歩いて30分もかかったし、友達もいなかった。だから2日に1日は休んだ。昼も夜も、ただ早く時間の過ぎていくことだけを祈った。施設の窓からは白いソバの花が一面に咲いた畑が見えた。

寂しさに耐えられなくなって修道院の山を降りて30分、駅に着くと勝手に汽車に乗り街に帰った。腹が減って涙が出た。家に辿り着き母の姿を発見すると、もう山に帰るのは止そうと思った。戦争が終ったのはそれから間もない頃だ。武士を称して威張っていた人たちも、あのいまわしい巡査も切腹せずに生き残っていた。

間もなく私は中学生になり、戦争ですっかり身体を悪くした父が死んだ頃、あの「ビンタ先生」の山崎先生が肺の手術をしてサナトリウムで療養中という消息を知り、一人冬山のサナトリウムを訪ねた。無茶なことをするといって後で随分と叱られた、母だけは「山崎先生元気だった?」と言っただけだった。サナトリウムでは「患者用の風呂に入って、メシを食って帰れ」とビンタ先生に言われて風呂に入ると、手術で胸がつぶれた男たちが皆んな湯につかり楽しげに談笑していた。この人たちのために、当時、もしN・アセチル・システインやグルタチオンのような強烈な抗酸化物質があったら。もし、ライソザイムのような強いウィルス殺傷能力のある酵素があったら。もし、キトサンオリゴ糖のような悪玉細菌の伝幡を許さず死滅させ物質があったなら。

思えばあの時代、不平も愚痴もこぼさず、戦争を乗り越え、夫の死を乗り越え、子供たちを守り黙々と生きた母。朝鮮人の逃亡者やイギリス兵そして今も会いたいあのビンタ先生。会えなくなってもう半世紀以上の長い時間が過ぎてしまった。

私は絵画が好きだ。30才を過ぎた頃から勤務先の商社を辞めて画商になろうか、とさえ思った程だから、今でもいい絵をみると捲かずに眺めずにはいられない。何十年間、良い画も見飽きた絵も、また大作も小さな作品も買ってはまた通り過ぎていった。中でも日本の大観、アメリカのアンディー・ウォホールなど忘れられない。しかし、ビバリーヒルスで購入してから20数年経って今だに何となく手離せない小品がある。印象派のエドワール・ヴィヤールの画いた鉛筆がきのデッサン、「マダム・ヴィヤール アシッセ」つまり彼の母の腰かけた肖像だ。ほんの小さな直筆画だが、額装にも入れる気にならず、裸のペーパーの侭いつも眺めてきた。

勝手に、自分の母親のイメージとダブらせているからかも知れないがそれは独り掛けの椅子に座ったヴィヤールの年老いた母の像だ。いつもこのマダム・ヴィヤールの晩年の姿を何気なく見ている内に、ふと私は晩年の自分の母のイメージが重なってふとマダム・ヴィヤールもアルツハイマー病を患っていたのではないかと思うようになった。

私はといえば人生の曲り角をいくつも廻って、ふと気付くと他人より何十年も遅れて栄養薬理学(Nutraceutical)を学ぶようになったのだが「アルツハイマー氏病」という言葉もなかった時代の母が「脳軟化症」という名のアルツハイマー病で長い入院生活の後に亡くなったのを憶えている。マダム・ヴィヤールと私の母、2人の晩年の姿の持つイメージは、悲しみの極致を耐えながら生き抜いてきた女の寂しさしか感じられてならないからだ。

近年の医学はアルツハイマーの原因は肉や脂肪の高カロリー食やアルコール、砂糖などによる過酸化脂質だと指摘している。しかし、マダム・ヴィヤールの時代も母の時代も満足な食事も口にできない時代だった。マダム・ヴィヤールの家庭の事情はよく知らないのだが、私は母と二人きりで過した長い年月、戦中も戦後の混乱も、人間の裏切りも、父の死もすべて身近かに見てきた者としてアルツハイマーの原因の最大のものは「配偶者の死」とか「破産」とかに代表される極限のストレスではないか、と思うのだ。このストレスが血液にどんな変化をもたらすか、だ。

こうした恐ろしいストレスから身を防禦する手段はあるのか。そこにこそ私が生涯かけて開発してきたM10-8キチン・キトサンがあり、N・アセチルシステインとグルタチオンに代表される強力な酸化防止剤があり、またディメチルグリシンとビタミンE、B6、B12、葉酸などの脳のビタミンがある。

そして、私がマダム・ヴィヤールと母のイメージから広くお奨めしたい脳活性ドリンク「メモリー」がある。最後に、いつも言うようにアルツハイマーの敵、電子レンジ(マイクロウェーブレンジ)を台所から排除することが肝要である。どんな栄養剤を口にしていても電子レンジを毎日使った食生活をしている限りはすべて無駄だということになるからだ。その日は突然やってくるのだ。

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