旅も好奇心も若さのビタミン - 鎌倉ロマン旅行 -(2000年11月)

11/01/2000
by Elders International

鎌倉駅を降りて鶴岡八幡宮へ向かう若宮大路の右側、今は鎌倉彫会館という建物があるのだが、その路を入ると宇都宮稲荷がある。そこにはもう一つ立派な碑が立っていて宇都宮辻子幕府跡とある。


鎌倉に住んでいる人でも余り知らないのだけれど、この場所は京都御所の北面、藤原朝綱が源頼朝の旗上げに馳せ参じて風雲急を告げる京都を脱出、頼朝によって与えられた屋敷跡である。下野の領主である朝綱はこれを機に宇都宮朝綱を名乗ることになる。
今日、日本人にとって一番住んでみたい場所は?という質問で「鎌倉」と答える人は京都と並んでNO.1を占めるそうだ。
それだけに押し寄せる観光客で土曜、日曜は身動きできない。
日本人の鎌倉好きは丁度ショパンのようにロマンに溢れていると思えるからに違いない。
宇都宮朝綱の姉は頼朝の乳母であったから、幼少の頃から頼朝は朝綱を知っていた筈である。
頼朝が伊豆に挙兵した1180年には朝綱はまだ京都御所の北面を警護する左衛門尉として勤仕していて平家の統括下におかれていたため、源氏再興の旗上げが頼朝によって敢行されたと聞くや、一刻も早く鎌倉勢に参じたいと思っても叶わなかった。


それどころか木曽義仲軍と対峠した平家軍として三百騎を率いて戦ったのである。1183年のことであった。
義仲軍の京都進攻によって大いに動揺した平家軍はいわゆる「都落ち」となって京都を捨てることになるのだが、その時、平家軍は宇都宮朝綱、小山田有重、畠山重能のいずれも関東ゆかりの武将は代々源氏にゆかりのある者たちだから、この際全員処刑すべし、との意見が強かった。つまり殺される寸前だったのだ。「彼等3人の者を殺したとして大勢にどれほどの影響があろうか」といって釈放すべしと主張したのは平肥後守貞能であった。
こうして朝綱らは京都を脱出、鎌倉のこの地に屋敷を構えた。屋敷内の稲荷だけは800年を過ぎた今日も残っている。
朝綱は息子の業綱が早世したことや、北条、三浦など関東土着の豪族が藤原北家出身のエリートであった朝綱に嫉妬することが多く、家督を孫の宇都宮頼綱に譲って栃木県益子に引退した。朝綱の一生は日本の公家中心の社会から武家政治への転換期を駆抜けた生き証人だったといえる。
孫の頼綱も苛酷な武家競争社会の中で常に頼朝なき後、北条、三浦による陰湿な攻撃に合い三十代半ばで出家してしまい蓮生法師として京都小倉山に住んだ。小倉山荘として今も名高い。因みに小倉百人一種は彼によって編緝されたのだが、世の中では彼の友人、藤原定家が作ったとされている。
頼綱は鎌倉時代を代表する歌人である。
彼の弟、朝業(ともなり)も又有名な歌人であった。


実は前置きが長くなったのであるが、私はこの朝業を紹介したいために本文を書いている。言ってみれば朝業こそ私の研究テーマなのである。
鎌倉幕府に出仕して、兄の頼綱の出家後、朝業も若宮大路傍の屋敷に住んだのである。
朝業について書いてある書物もあって文学者にとっては魅力ある人物であるらしいのだが、それは今でも宮内庁図書寮に彼の日記集が残っているからだ。彼は鎌倉幕府三代将軍源実朝の側近であった。
実朝に和歌を教えたのは朝業だったと言ってよい。
読者はご存知のように、実朝は甥の公暁によって鶴岡八幡宮で殺されるのだが、その日は実朝の右大臣就任祝賀式で朝業も側近として行列の中にいたのだった。いわば眼前で突然、敬愛する主人が殺されたのである。


「君ならで誰にか見せん吾が宿の軒場に匂う梅の初花」という歌と梅一枝を添えて実朝が朝業に届け、これを受け取ったのもこの屋敷だった。
「嬉しさも匂も袖に余りけり吾がため折れる梅の初花」と返歌をかいたのもこの屋敷だったのである。
朝業も実朝の死に絶望して出家するのだが、実は朝業は実朝殺害の後、鎌倉の山を越え、大船の竜宝寺に泊り、さらに秦野の波多野城を訪れ、さらに何日後かに長野善光寺へ行った形跡がある。この行動は何だったのか。
因みに、殺された実朝の首は見当らず、首なしのまま葬儀は営まれたとある。
歴史では朝業の行方は不明となっているのだが私は何年かを彼の調査にあててきて、彼が出家後、信生法師となり兄、頼綱のもとに身を寄せたこと。
静岡県の宇津が谷峠で旅の途中亡くなったこと。彼の墓は彼の居城であった栃木県の矢板市倉掛に隠れるようにあるが彼の開基による氏寺、長興寺にはない。彼の生涯を追って鎌倉、矢板、秦野、長野、京都そして宇津が谷峠へと足を延ばしてみることを奨めたい。そうすれば「住んでみたい町、鎌倉」はより一層その魅力を増すだろう。


エルダース栄養科学研究所の本社は、20年間この鎌倉にある。

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